宇宙の子供たち

大好きなアーティストの曲に「月へ行くつもりじゃなかった」という歌があります、灯油のにおいが立ち込める陰鬱な部屋でこの曲を延々と聞いてたあの頃を思い出しました。

 

自分は脚本を幹として枝分かれに演出、メイク、広告美術とやってきましたが、やっぱり人様の芝居を見てて一番目が行ってしまうのってやっぱり脚本なんですよね、でも今回は創作ではなく既成での上演ということで、脚本の部分にはノータッチで進めていこうと思います

まず、このご時世にものすごくタイムリーな子供の虐待死がテーマの作品、以前私の記事でも取り上げましたが結愛ちゃんのニュースが風化しかけている今、舞台、光の席、音の席、そして袖幕で彼らを見守る一人ひとり、どんな感情を持って虐待というテーマに望んでいるんだろうとただ、今は漠然と考えています

 

幕が上がる

仲良さげな家族、地に這う根が虐待なら枝が星に当たると思う、このシーンから読み取れるのは、まず前提として「成り立っている家族」服装も、後々に比べるとピシッとしていて、夏の大三角形を語るお父さん役の子には大黒柱としての安心感を身に纏わせている、母親役の子も同じく、包容力のある、優しい母親の姿が凄く様になっていた

星、きらきらと、別の言い方をすればちかちかと光る星

私の独自な解釈でしかなく、私は劇の序盤はあんまり理解できないことのほうが多いので見当違いなことを言ってるとしたら恥ずかしいのだが、首元に両手をかざす→首絞め?という考察

脳に酸素がいきわたらなくなり視界がちかちかしているさまを、星の見えない孤独な二人ぼっちの夜に繰り返していたのではないか、親に教えてもらったとかではなく、親に教えてもらったことにした自分たちが進んでやった道楽として、序盤このシーン、理想の話なのか現実の話なのか、はたまた混合した話なのか初見の私にはあまり追及できないところではある

 

そういえば、私座席の後ろのほうのほぼ真ん中に座ってたんですけど、あの星を見る長い筒(名前忘れた)の舞台の中央斜め45度のその絶妙な角度からして「見つけた!あれがボクたちの星だ!」ってそれ多分私の顔面ですね、ケンジくんとタダシくん、服装も顔も体系もしぐさも子供のそれで、実力という物を突き詰めてきてるなぁと感じました、楽しい時には楽しいオーラを体いっぱいで表現し、悲しい時、暗い感情の時は私達の心臓を持っていこうと手探ってくる彼女たちの演技は本当に素晴らしかったです

複数回見ている人にとってはこのシーンがいつまでも続けばいいと思われるくらいに向くな子供の姿がそこにはありました

さてここで登場するのがロクスケおじさんとお姉さん、この二人のキャラもまぁ非常に素晴らしい、会場を一つ一つの所作で笑いに引きずり込むロクスケとそれを後押しするお姉さん、ていうかお姉さんの活舌が非常によろしい、そんな頼れるロクスケおじさんのもとには沢山の子供たちからの沢山の電話が来ます、そんな頼れるロクスケおじさん、タダシとケンジの質問にも何も迷いもせず答えてしまう!ええ!すごーい!

頼れる!天才!

 

宇宙、二人が望む星へ、高度が上がり、明かりがどんどん暗いブルーになっていく

二人を包む柔らかい光がコックピットとなり、周りは一層ブルー一色になり、後ろの大黒幕も一気に開く、二人の世界が開かれるのだ

 

でも、考えてみれば、私達はもうとっくに気付いているんです、宇宙になんか行けないって

ましてや、誰しも飛行機とかに見立てた遊具でパイロット役を務めたことがあったであろうが、その飛行機を模した鉄屑がエンジンを一吹きでもしたことがあったか?無いだろう、二人の孤独な現実からの逃避行に過ぎないことは私達は考えれば分かることなのだ、隣から聞こえる大声もドタバタと煩い物音も耳をつんざく泣き声もまた同じく

 

でも大丈夫!頼れるロクスケおじさんとお姉さんがついている!と思ったら間違えて月面着陸してしまった、確か(うろおぼえですごめんなさい)

 

私のいわゆるツボの話なのですが、舞台にあまり関係ない、書いては失礼だがモブたちが大勢出てきて踊ったり叫んだり何かしらのパフォーマンスをするのが個人的にすごく大好きです、このシーンは凄く燃えました、あとBGMのチョイスも凄く素敵

 

そしておばさんうさぎたちの会話で一気に引き戻される、上手く文字で表せないのがもどかしいが、逃避先で別の生き物として当てはめた身近な生き物がひそひそ話てるのを私達が聞いて、二人が置かれてる状況を把握するって、私達もおばさんうさぎになったような感覚になってすごくドキドキしました、私達も、黙認している一人なのです、羽織を羽織って出てきたかぐや姫もTHEお局って感じでしたね

 

そしてもう一度コックピットへ戻って二人の星へ目指そうとするが何故か遠のいている!!何で何でと二人は騒ぐがもう私たちにはなぜ届かないのか薄々じゃなくともわかっているんです、そして小惑星の軍団に出くわしてロクスケおじさんたちとの回線が切れてしまう、ロクスケとの通信はタダシの心がベースでリンクしているからか、乱れると回線まで乱れてしまうのだ!雲行きが怪しくなる

 

場面は体育の授業、これまた面白かった

何かを失敗したり口答えすると殴りかかる女教師

「なわけないじゃーん!」の一言はこの物語の主軸となるキーワードに感じてならない

これでいくらでも否定できる、その行いをした自分を肯定できる、冗談だ、自分は悪くない

体罰?なわけないじゃーん」「いじめ?なわけないじゃーん」「虐待?なわけないじゃーん」

そして「なわけないじゃーん」と言って危害を加えない女教師と後々の展開も凄く比較的だ

生徒がボールを持ちながら二人を取り囲む、小惑星の集団、これは素直に発想と演出すげえと思った、現実と逃避の狭間ということは抜きにして、教師や生徒が癒えに来て学校来てよとか抜かすのは子供にとっての重大なストレスである、ましてや臭いとか抜かしてたやつとかならなおさら、全員胎児からやり直して一昨日来いって話なわけです

 

そして、家庭のシーン、だったような気がする

このシーンは凄い、やっぱり脚本自体を褒めてしまうのだが、兄弟でえげつないレベルの対応の差はやはり心に来るものがある、二人ともいたいけな子供なのだ、弟も兄の皿にカレーが乗ってると信じたいのだ、空の皿をむしゃむしゃと食べる(?)母親の姿、うつむきながらカレーを頬張る姿はリアリティーがありすぎて直視できなかった、泣き叫ぶタダシの声が響く、お母さん悪くないもんねと子供に問いかける原初的な毒親の姿は身体が震えた、母は統合失調症なのでしょうか?

そして小汚い恰好をした父親が万引きした本を手土産に帰ってくる、そしてタダシはそれに反論する、やっちゃだめなことを絶対的な親がしているという悲しい現実に立ち向かおうとしているタダシ、ついには星を見るアレにまで手を出そうとする父親、反抗するタダシ、それでも大人にはかなわない、更には金持ってんだろと乱暴される始末、虐待はリンクする、タダシの母親も昔そうだったと劇中では軽く触れられていましたがこれは重い事実です、そして出ていく二人とテーブルに潜る二人(幕裏で二人の喧嘩が続いてるような声と音を出すと臨場感あふれていいかなと思ったんですがいかがでしょうか)場面がリアルすぎて泡吹いて倒れるかと思いました

 

そして、死の瞬間、あれはもう凄かったですね

ここで私の話をするのはどうかと思いますが昨年の大会で我が校も虐待をテーマに芝居をしたんですね、そこでどれだけリアルを追求できるかで髪の毛引っ張って引きずり回したり実際に蹴とばしたりしたんですが、結局、されたことも無い人がやるには只の真似事にすぎなく(言い方が悪くなりましたがこれはこれで私達にしかできない最高のパフォーマンスだと自負してます)意図的に隠されたものを表現するにあたってあの身体表現は凄くイイなと思いました、父と母の暴力、クラスメイトからの暴言、何もできない、立ち向かう力など揃えられていない幼気な少年二人、タダシの手からビームなんて出ない、出るわけがない、助けたい、でも出ない、助けられない、兄ちゃん…の声で暗転、悲しいけれども分かってしまう

 

その日のロクスケおじさん相談局にはいつもと同じく沢山の手紙が届く、でも内容は簡略化すれば死にたいといったようなものばかり、過大な表現ではなく、これはありのままの事実です、そういやお母さんが暴れた段階で、ロクスケおじさんにもう一度電話をかけたとき、周りにお父さんやお母さん、相談できる人いる?先生でもいいよ、のセリフがとても心苦しかったです、誰も頼りにできなかった二人の唯一のヒーロー、誰にも助けてもらえない、繰り返される暴力の中で何を思ってたのかが、暗転後の二人の会話に詰まっていると思います

 

安住できる僕たちの星が欲しかった

 

暖かな家庭、遅すぎた、あるはずのない暖かな家庭、ホリに映し出される星たちは、彼らがまだ地球にいることを意味しているのだと思う、お父さんはちゃんとした服を着ている、母は全員分の料理を作り、子供たちに優しく微笑みかける、宇宙に行かなければ存在しないものだと思ってたタダシとケンジ、彼らが欲しかったのは星なんかじゃない、ただの温かい普通の家庭だ、家族四人寄り添って星を見るシーンで、思わず涙を流してしまった

 

全体的に完成された芝居だと思いました、私から言えることと言えばゆっくり休む時間を作ってほしいということくらいです、これからの時期、きっと追い込まれるのではないかと思います、そんな中で本番長野の地で後悔の残らないよう、今ではなくともしっかり休養を取ってほしいように感じます