文字での弔い

-東京都目黒区のアパートで両親に虐待された末に死亡した船戸結愛(ゆあ)ちゃん(当時5歳)は、ひらがなの書き取り帳に「反省文」を残していた。衰弱した小さな体で、何を思い書いたのだろう。その文章が多くの人の心を揺さぶっている。

-(毎日新聞より抜粋)

 

春を超え、気が緩む5月を超え、新しい環境にも馴染みかけ平凡な毎日が訪れてきた中で余りにも痛ましすぎる事件がテレビの奥で騒がれている

この話題、貴方の食卓でも上がったのではないだろうか、そして、貴方はこの事件を見て、何を思ったのだろうか?

共有し、話し合い、そして何を感じた?

私はとある公共施設で働いている、今日別の話題からこの事件の話へ発展した


余りにも可哀そうすぎる、思わず自分の子供を抱きしめてしまった、暴力を振るわれても母親の元へ帰りたいと願った子供のことを思うといたたまれない、泣けてくる


正直、いつこの話題が上がるのかと私はワクワクしていたのだ

結愛ちゃんが残した「反省文」は改めて虐待について対峙する大いなるきっかけとなった、これとそれとはまったくの別物だが、今この世の中にはたくさんの表現作品が出回っていて、その中でエッセイという物が存在するが、例えたくさんの本屋を巡っても、彼女が残した生々しく痛烈でそしてダイレクトに訴えかけてくる文章は中々存在しない


私の中ではそれぐらい彼女が残した「反省文」は今や別のモノに変わりつつあるのだ


命を本当の意味で削りながら生きるために書いた文字たちが、本来はパパとママに届いてほしかった言葉たちが、誰にも届かず、今後の虐待問題にさえ余波を残さないとするなら、それはこの国の本当の意味での終わりである。

 

ところがそんな中で悲惨すぎる事件を目の前にその報道が流れたらチャンネルを変えるという人もちらほら存在した、私の母もその一人だ、結局のところ、何もできないから、と。

 

それは、余りにも弱すぎるのではないかと私は思うのだ

痛みから逃げていては何も始まらず、私はむしろもっともっとこの事件が報道されるべきであると思う、小さな命が日々繰り返される暴力という表現では軽々しい程のものを、その小さな体一身に受け、まだ幼いながら歪んだ教育を受けそれが正しいと思い込まされ、遊ぶことすら、無邪気にはしゃぐことすら許されなかった

そんな彼女が書いた魂揺さぶる「反省文」を前に、大きく育ち、ある程度の強さを持った私達が向き合わないのは絶対におかしいのだ。

 

 

まず、貴方が、そう、幼稚園児だとして、ある日突然親元から引き離されたら、どう反応するだろうか?

私は泣き叫ぶ、今すぐママの元へ帰してくれと大暴れだ、今大人となった私達には想像もつかないくらい子供にとっての親は巨大だ

親の愛を底なしに求めても求めても足りないような時期に親から離されてはたまったもんじゃない


貴方ならどうする?いきなり誰かも分からないおばちゃんおっさんが自分と親とを引き離したらどう感じる?

児童相談所はなぜ対応しなかったのか、奥底にはこういう背景もあったのではないかと私は思う、結愛ちゃんは、一時保護所の心理士に「前のぱぱがよかった」「ばあばの家に帰りたい」と零した後「おうちに帰りたい」と話したそうだ

本能として(という言い方は少し狡くなるが)結愛ちゃんは殴られても親の傍に居たかったのだろう、親というのは残酷で、たとえ冷たく突き放されても触れると体温は温かいのだ、それはもう、ずっとふれていたいくらいに

ほんの少しのぬくもりでもそれが親のものとなると子供は安心するのだ、してしまうのだ。


確かに、今回とは限らず児相は何人もの小さな命を守れず見過ごしてきた、だが、今の私達に、小さな子供が親を求める真髄を理解し、そして言語化し、その孤独ごと抱きしめることなど到底出来ないのだ。

 

 私は、学が無い、本当はもう解明されてるのかもしれないが、子供が暴力を振るわれても、冷酷な扱いを受けても嫌いになれない、離れられない(離してもらえない場合が多数だと思うがここでは省かせていただく)共依存のメカニズムへの探求が児童虐待減少の小さな鍵を握ってると考える、児相が虐待児を保護できる環境、状勢、システムを整えてもケアが整ってなければ意味などなく、また同じ過ちが繰り返され、最悪な場合連鎖する可能性もあるだろう。

 

 

ところで皆さんは、今回のパパママ二人、一体何年服役すると思うだろうか

虐待死の事件は、一つの命が奪われたという点に関しては他の生命犯に通ずるものがある

だが実際のところ多くの場合問われる罪名も懲役の年数も違く、人を殺せば殺人罪だが、虐待事件の場合、大概殺人罪ではなく保護者責任遺棄致死となる。

これは恐らく死に至らしめた加害者の行動が直接であるか間接的であるか、殺意があるかないかの違いなのだろうが、知識不足のためあまり詳しいことは分かり兼ねる


最近埼玉県内のアパートに子供を閉じ込め餓死させた事件で加害者である母親に殺人罪が適用されたようですが、いまいち線引きがよく分からない


それにしても、保護責任者遺棄致死罪という罪名、残酷なことしてる割にインパクトに欠ける罪名だと思わないだろうか、ダイレクトに虐待殺人罪くらいにすればいいと私は思うのだが。

 

話を戻して、実際殺人罪と保護責任者遺棄致死とでは、殺人罪では大体無期懲役か有期刑では5~20年とされている、これに余罪などを加えると30年程になる。

そして保護責任者遺棄致死では3か月~5年程となる、これに余罪加えて、いって7年くらいだろうか


私達としては虐待死させた親へ重罰を求める一方で、10年足らずで彼らは出てきてしまうのだ

あくまで「故意は無く不注意の上で」亡くなったとされる罪名で裁かれることにはなるが、それにしてもそうやって亡くなった子供への償い、10年足らずで本当に足りるのでだろうか


無期懲役に処されて30年くらい塀の中で過ごして彼らはやっとやってはいけないことをしたと気付くのではないだろうか、または一生気付かないかのどちらかだと、私は思う。

 

こんな悲痛な事件も、いつか忘れてしまう、日々揉みくちゃになりながら過ごすうえで、どうしても人は忘れてしまう


今日とある事をきっかけに昔地元で起こった虐待事件が思い出された、結局どう足掻いても私達は忘れてしまう


人は二度死ぬ、生命の死と存在の死、誰が虐待死した子供の存在を記憶にとどめるのだろうか、その子を殺した親?親を歪んだ環境で育てたその親?泣き声に耳を塞いだ近所の人達?それとも貴方?

虐待死した子供の魂は何処で眠るのでしょうか、今も安心できる場所を求め、子供には寒すぎる孤独な夜の中彷徨ってるのではないだうか。

 

 

今、結愛ちゃんと家族が過ごしたアパートには沢山の花束と缶ジュースが並べてあるでしょう、そして連日手を合わせていく人が後を絶たないでしょう、現場で手を合わすことも、花を手向けることも、生前、食べること、遊ぶことの許されなかったお菓子やおもちゃを添えることもできないまま、いつか結愛ちゃんのことを忘れる私達


アパートの前に置かれた花は枯れ、缶ジュースは腐っていく、アパートを素通りする人々


今この事件と向き合い、今この時も、親に暴力を振るわれてる子供、性的、精神的な虐待を受けている子供たちがいると認識し、改めて虐待とは何か、虐待児、またはその親の心理、なぜ虐待が起こるのか、そのメカニズムについて深く調べ、対峙することこそが、こんな私達にできる結愛ちゃんへ、そして今まで虐待死した子供たちへの最大の弔いなのではないだろうか。